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z**********e 发帖数: 22064 | 1 http://www6.plala.or.jp/GEKI/geki/1/01onrai.html
従来の公式の中国革命史ではなぜか周恩来は「王明路線」とは別のものとされていた
。しかしこの男はまぎれもなく、1932-34年までのいわゆる軍事三人小組(恩
耒、ポグ、ブラウン)の成員であり、軍事はおろか中共中央の全政策を決定できる立
場にあり、当然にもそれを決定し、それゆえにまた理の当然としてその結果に責任を
負わなければならない。中国革命史における周恩来の犯罪的な役割をいくらかでも日
光の下に暴きだし、世界の革命者たちがこの重大な教訓を学ぶようにすることは、現
在きわめて重要な、根本的な意味を持っている。人々はスターリン個人については、
その行いに対してさまざまな批判ができる。しかしスターリンの主義とは何かを問う
た時、たちまちワケがわからなくなる。その最も象徴的な問題、それが周恩来をスタ
ーリン主義の範疇に入れないで、別のものと考えていることである。スターリンと周
恩来とでは、日本人のおろかな人物観からすれば、全く別のもののように見える。ス
ターリンは暗い、独裁者、粛清者、自由の抑圧者、侵略者であり、日本から千島樺太
など北方領土を奪い取った。しかし周恩来は柔和で親しみ深く、気配り上手で、日本
には侵略戦争の賠償を放棄した。アハハハハハ。日本人の政治意識はかくもデタラメ
、かくも愚劣、かくも幼稚である。この程度のイメージなどは、マスコミを使ってい
くらでも作り出すことができる。そして世界中の帝国主義者は必ずありとあらゆる宣
伝機関を動員して、自分を飾り立て、自分に都合の良い属性を塗りつけることでその
支配を正当化する。
だが、具体的な資料に触れて、まさに実事求是で彼らの真の面目を研究したとき、誰
であれ周恩来の恥知らずなスターリン主義の本質を見ることができるだろう。この問
題を今後どうしても一つでも二つでも、あきらかにしていかなければならない。
1933年1月21日の電報
それでは何からはじめようか。1933年1月21日、周恩来は中央ソヴィエト区北
面の前線から中央(瑞金)へ電報を打って、何点かの建議をしている。その内容は多
方面にわたり、このとき周が中共の軍事闘争の全般を指揮していたことを示している
。(1932年10月の寧都会議で周をはじめ中央局の多数を占めるスターリン派は
、ありとあらゆる荒唐な罪名を毛沢東同志に浴びせて、その軍事指揮権を奪った。こ
のことはすでに1930年からソ連、コミンテルン、スターリンが中国革命に介入を
本格化したときから、その最大の目標とされていたものである) そしてこのとき(
1933年1月)鄂豫皖地区の紅四方面軍はすでに根拠地を捨てて西へ移動していた
。この時期には川陝地区(四川、陝西境界地区)に達し、四川省東部の遊撃隊と合流
し、ここに一時的な根拠地を建設し始めていた。
なぜ四方面軍は西へ移動し党中央はそれを見逃していたのか。通常中共中央と紅軍の
長征は、国民党軍の第五次「包囲討伐」を打ち破ることができず、根拠地が日に日に
縮小したために、包囲を脱出し新しい根拠地を創造するためだったと説明されている
。そして貴州省北部の遵義で軍の指揮を軍の指揮を毛沢東同志が再び担任することに
なったあと、四川省西部を通って陝西省北部へ進んだ。このことは国民党軍の追撃を
振り切り、阻止を避けて、日々苦しい戦闘を続けていたためにやむなく取ったルート
とされている。しかしもしそれが正しいとするならば、1932年に中央ソ区の長征
より二年も早く西へ移動を始めた第四軍(張国燾、徐向前軍)の行動はきわめて不可
解である。なぜ南京、武漢、上海に近い鄂豫皖地区を、早々と放棄したのか、しかも
その直前の蘇家埠戦役では紅軍始まって以来といわれる大勝利を挙げていき上がる四
方面軍が、中共中央が蒋介石政権との最後の決戦を呼号する中で、その真逆の方向へ
移動するのか。この理由を筆者は長い間追い求めてきたが、最近当時のコミンテルン
の中国関係文書が発表されて始めてその答を見出した。早い話が「二十八人半のボル
ジェヴィキ」つまり、ソ連留学帰りの、スターリン-ミフに直接結びついた小集団は
、公式の政治路線とは別に、ソ連、スターリンの密命を受けた、特殊なエージェント
であったということである。その密命とは、中国紅軍を一人でも多くソ連国境に連れ
てくることである。そこでソ連の兵器で武装し、「革命」の旗を掲げて、中国に侵攻
する計画であった。長征は、国民党軍との戦況にかかわりなく(なぜならかれらは帝
国主義の干渉がある限り中国革命は勝利できないと考えていたからである)ソ連が中
国へ侵攻するために必要な中国人の兵士を国境地帯に集結するために、ソ連によって
計画され、指令されたものである。
以上の状況にかんがみて、1933年1月21日、周恩来は全国的な軍事配置に関し
て採るべき政策を提起している。その第二項は次のように述べている。「二、一群の
陝甘川の同志(中区は回族の同志及び川甘の同志を呼んで四方面軍に行かせる)を追
加派遣しなければならない。二軍団の四川省東部の一部と四軍団をすみやか人会合す
る。一部の紅軍を四川省北部に残して拡大し赤化を行うほかに、巴山に沿って漢水流
域へ発展し、かねて一部で甘粛を赤化し、ならびにわれわれの前数電の建議を採取す
る」(『周恩来軍事文集』第一巻、233ページ)。この電報の意味する内容は、第
四方面軍に賀竜の第二方面軍を加えて漢水の上流へ進出し、そこからさらに四川省北
部、甘粛省へ赤色区を拡大せよということである。そのためには中央ソ区の中にいる
回族の同志を集めて送り出すことまで計画している。「前数電」で何を指示している
かは発表されていないので知るよしもないが、それがわからなくとも、周恩来の目的
がソ連につながる陸の回路を設立するものであることは、中国のおおよその地理を知
ってさえいれば誰にでも分かることである。この点から見て、周恩来は「二十八人半
のボルシェヴィキ」の一員であり、かつ最も主要な一員であることがわかる。
だから長征は、スターリンの解釈を敷衍して言えば、1932年の秋に始まっていた
のであり、それは中央では寧都会議で毛沢東同志を中央の指導者から排除すること、
鄂豫皖区では移動に反対し、「中国の」革命を強く主張する多くの邉婴伍_拓者たち
をを皆殺しにして紅軍を奪い、西への移動を開始することであった。この破廉恥極ま
りない計画を周恩来が中心の指導者として推進し、配置していたことをこの電報はあ
きらかにしているではないか。 | g******e 发帖数: 3760 | | T*****y 发帖数: 18592 | |
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